2015年10月19日月曜日

維新の党分裂騒動における現執行部の正統性の検討メモ

橋下徹氏が維新の会の現執行部は無効と主張している。

http://lite.blogos.com/article/139181/
大阪系の国会議員を除名処分ってやってるけど、それ何の権限に基づいているんだい?維新の党の松野代表は任期切れでもう代表ではない。代表の任期切れに伴って執行部も任期切れ。今、維新の党には代表も執行部も不在の状態なんだ。松野氏たちは何をはりきってるんだろ?

彼の言うことは本当だろうか。維新の会の現執行部の除籍処分は法的有効性を有するか。特に、代表選を延期した点は、現執行部の正統性を失わせるか否か。共産党袴田事件の類推適用により、代表選延期の決定は有効であり、同時に現執行部の存在も正統性を有する、というのが私の結論である。

共産党袴田事件 
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/133-3.html
政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばないというべきであり、他方、右処分が一般市民としての権利利益を侵害する場合であっても、右処分の当否は、当該政党の自律的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特段の事情のない限り右規範に照らし、右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決すべきであり、その審理も右の点に限られるものといわなければならない。

上記判決を読むと除籍は、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題」に当たるから、一見するとそもそも現執行部の正統性を問題としえない、と考えることもできる。しかし、上記判決では処分決定をなした執行部自体の正統性は問題としてないことを考えると、その正統性が問題となった今回の件に、上記判例は直接当てはめできない。ではどう考えるべきか。政党交付金が党員の一般市民としての権利に関わることを鑑みると、現執行部の代表選延期決定の有効性は、「処分が一般市民としての権利利益を侵害する場合」を類推適用して考えるのが妥当と思われる。すなわち、代表選延期決定の有効性は、「当該政党の自律的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特段の事情のない限り右規範に照らし、右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決す」るのが妥当であろう。

そこで維新の党の規約を確認し、現執行部がなした代表選延期の決定が有効か否か、そしてその決定が現執行部の正統性を失わせるか否かを検討しよう。

維新の会の党規約 抜粋
https://ishinnotoh.jp/about/agreement/
(執行役員会)
第7条
本党に、次の各号に定める役割を担うため、執行役員会を設置する。
- 党運営に関する以下の規則について審議、決定する。
    - 代表選挙規則

(代表)
第8条
本党に、代表を置く。
- 代表の任期満了に伴う代表の選出は、党員による選挙によって行う。代表選出のための選挙は、代表の任期が終了する年の9月に行うことを通例とする。
- 前項に規定する代表選挙については、詳細を別途、代表選挙規則において定める。
本規約に定める機関の役員等の任期は、代表の任期に従うものとする。

上記より、代表選は9月に行うことが「通例」と表現されているため、状況によっては必ずしも9月に代表選を実施しないことも許されると解釈できる。維新の会に分裂騒動が起こっている以上、代表選を行える状況ではないためそれを延期するという現執行部の決定は、公序良俗に反するとは考えにくい。また、第8条に「本規約に定める機関の役員等の任期は、代表の任期に従うものとする」とあるので、代表選延期が有効ならば、連動して現執行部の役員全員も正統性を有すると言える。

以上より代表選延期の決定は有効であり、同時に現執行部の存在も正統性を有すると評価できる。

(追記 就任当初から無効論について)
このメモは橋下徹氏の発言(「松野代表の任期は切れているから現執行部の存在は無効」)に触発されて書いたが、驚くべきことに松野代表の就任当初から無効と主張している幹部も存在する。

http://sp.mainichi.jp/select/news/20151015k0000m010126000c.html
 馬場氏は、松野頼久代表が5月に選出された際、党規約で定めた党大会を経なかったことから就任は無効だと主張。国会議員や地方議員の過半数から党大会の招集を要求する委任状を集めており、24日に臨時党大会を開いて新執行部を選出し、政党交付金を分配する分党決議を行う考えを示した。24日に予定した新党設立の延期も検討する。

どういうことかと思ってちょっと調べた所、松野代表選出の具体的な手続きについて記述した以下の記事が見つかった。

http://www.jiji.com/sp/zc?g=pol&k=201505/2015051800689&pa=f
維新の党規約には、任期満了に伴う代表選選出の仕組みはあるが、任期途中で代表が欠けた場合の規定はない。幹事長室会議では「両院議員総会で過半数の賛成により新代表を選出できる」との規定案を急きょ作成。19日午前の執行役員会で了承されれば、同日午後に両院議員懇談会を開催。異論がなければ直ちに両院議員総会に切り替え、新代表選出に着手する方針だ。

そして実際に5/19に両院議員総会で松野氏が選出された。
 
http://www.sankei.com/smp/politics/news/150519/plt1505190038-s.html
 維新の党は19日、国会内で両院議員総会を開き、「大阪都構想」が住民投票で否決されたことを受け代表を辞任した江田憲司氏(59)の後任に、幹事長だった松野頼久氏(54)を選出した。

代表が任期途中で退任した場合の選出方法が規約に無かったというのは驚きだが、それでも冒頭で掲げた判例を類推適用して、この規約追加の有効性を「右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決す」ればよいであろう。

すなわち、任期途中で代表が欠いた場合に両院議員総会で過半数の賛成により新代表を選出できるという規定を、規約第7条第3項に基づき5月時点の執行役員会が追加したわけだが、この新規定やこれを追加した経緯は、公序良俗や条理に反しない以上、当然に有効である。

代表の任期についての別角度からの検討
維新の規約には以下の文言もある。

第8条第3項
代表の任期は、就任から3年後の9月末日までとし、重ねて就任することができるものとする。

松野氏が代表に就任したのは2015年の5月であり、就任当初、氏の任期は同年の9月までと発表されていた。しかし、この発表に関して規約やその他規則等に明文の規定がない場合は、執行役員会が代表選延期を決定した後に上記の規約第8条が補充適用され、最長2018年9月末まで代表の任期が延びるとも解釈できる。

松野氏が選出された時に適用された代表選挙規則やその他の細則の文書がネットでは見つからなかったので、詳細は不明だが、もしも任期についての規則が明文で定められていなかったとすると、上述の2018年まで任期が延びるという解釈も可能ではないだろうか。

2015年9月5日土曜日

「一般国民の理解が得られない」のダブル ミーニング

先般、五輪組織委員会は、「エンブレムはリエージュ美術館のロゴの模倣ではないが、一般国民の理解が得られない。そのためエンブレムを撤回する」という趣旨の発表をした。それにしても、「一般国民の理解が得られない」とは、奇妙な表現である。この表現には、巧妙なダブルミーニングが込められているように思われる。

組織委は、一般国民が何を理解したら、エンブレムを使い続けるつもりだったのだろうか。一般国民が「エンブレムはリエージュ美術館のロゴの盗用ではない」という点を理解したら、組織委はエンブレムの使用を継続したのか。確かに、弁護士や弁理士の解説を読むと、佐野研二郎氏がリエージュ美術館のロゴの著作権を侵害していることを立証するのは、困難のようである。しかし、それは重要な論点なのだろうか。

本当の所は、エンブレムの使用継続が難しくなったのは、佐野研二郎氏がデザイナーとしての信用を完全に失ったからである。リエージュ美術館のロゴとの類似性は、もはや関係が無い。

リエージュ美術館の件が一切無かった場合を仮定して上で、以下の仮想的な状況を考えてみよう。まず、佐野氏が殺人を犯していた場合はどうか。五輪エンブレム制作と無関係の殺人事件だからといって、エンブレムの使用が継続されることないだろう。他方、佐野氏が飲酒運転をしていた場合はどうか。この場合は、エンブレムの使用は継続されるだろう。

殺人と飲酒運転の違いは何か。それは、デザイナーとしての信用が決定的に毀損されたか否かの違いである。殺人事件はデザイナーとしてはもちろん、人間としての信用を毀損したため、エンブレムの使用継続は許されないのだ。しかし、飲酒運転はデザイナーとしての信用をそこまで毀損しない。

では、五輪とは別の仕事で著作権を繰り返し侵害していた場合はどうか。トートバッグのデザイン(佐野氏は部下がしたと述べているが疑わしい。事実ならば、その部下の名前を公表すべきである)や、五輪エンブレムの展開例(カンプ)での著作権侵害は、仮にリエージュ美術館の件が無かったとしても、デザイナーとしての信用を失墜させるに余りある行為である。このような複数の著作権侵害行為は、殺人事件と同様に、デザイナーとしての信用を決定的に失わせるものだ(もちろん殺人事件とは異なり、人間としての信用までは失わないが)

繰り返すが、リエージュ美術館の件とは無関係に、佐野氏がデザイナーとしての信用を失わせる著作権侵害行為をしたから、エンブレムの使用継続が不可能になったのだ。以上を確認した上で、「一般国民の理解が得られない」の意味は何だろうか。

一つ目の意味は、最初で述べたように、「五輪エンブレムはリエージュ美術館のロゴの著作権を侵害していない」ということを、一般国民が理解していないことである。確かに「エンブレムは著作権侵害ではない」と言う専門家たちの意見は正しいように思われる。そして、その点を理解していない一般国民も多いだろう。しかし、もはやその点は重要ではない。

二つ目の意味は、五輪とは別の仕事で複数の著作権侵害が発覚した佐野氏のエンブレムを使い続けることを、一般国民は受け入れられない、ということである。この理由は、縷々述べてきたように、デザイナーとしての信用を佐野氏が完全に毀損したからである。リエージュ美術館の件は関係がない。

組織委は上述の二つの意味を「一般国民の理解が得られない」に込め、佐野氏に対する責任追及の必要性をごまかしたように思われる。一見すると一般国民が無知だからエンブレムを撤回したとも解釈でき、他方で佐野氏の責任に言及しているようにも読めるのだ。

なぜ、組織委はこのような曖昧な表現をしたのか。これは推測だか、組織委は佐野氏にある種の弱味を握られているのではないか。現在、ネットで出回っている情報や報道内容を見る限り、エンブレム撤回の責任は、ほぼ佐野氏だけにある。五輪とは別件の、彼の仕事の不誠実な著作権侵害行為に、今回の事態のほぼ全責任があると言ってよい。それにも関わらず、組織委が曖昧な表現で佐野氏を庇ったのは、両者にある種の共犯関係があるからではないか。

もっともありそうなことは、今回のエンブレム選考が出来レースだった、ということである。選考委員長は「もっとも透明な選考だった」と自賛しているようだが、応募要件が厳しく100人余りしか応募しなかったようである。また、デザインに関する有名な賞の受賞者と、その選考委員が同じような顔触れというのも疑念を生じさせる。

何れにしても、佐野氏の責任を追及しようとしない現在の組織委には、自浄能力が無いように思われる。組織委員を全面的に入れ替えるとともに、第三者委員会を作って今回の件の経緯を詳しく検証すべきだ。

2015年8月22日土曜日

保守主義 = 理性主義のつまみ食い

中島岳志氏の「保守派の私が原発に反対してきた理由http://www.magazine9.jp/hacham/110330/ を興味深く読んだ。私も中島氏と似た考えで原発の長期的な維持には反対である。原発のリスクは、自動車事故や医薬品の予想外の副作用と異なり、ひとたび過酷事故が起きれば回復不可能な破滅的損害が生じうる。例えば、交通戦争とまで言われた最悪の時期の自動車事故では年間1万人程度が亡くなっていたが、それで国が破滅するわけではない。しかし、最悪の原発事故が起きた場合、国の復興が物理的に不可能になる可能性があり、受け入れ難いリスクである。個人的には、原発の新規設置は行わず、既存の原発を耐用年数が来るまで稼働させつつ段階的に脱原発を行うべきだと思う(即時に脱原発をすべきでないのは、火力発電所建設など代替エネルギー獲得の時間稼ぎをする必要があるため)。

しかし、中島氏の論文の内、脱原発論とは直接関係が無い点が、私の関心を引いた。それは、中島氏が「保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします」と書いている点である。この考え方は結局は矛盾を来たすのではないか。

中島氏は保守主義を次のように説明する。

 保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念を保守主義者は共有します。

 保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。

中島氏は、上述のような理性万能主義に対する懐疑を根拠に、安全な原発など不可能だから原発には否定的である、と議論を展開する。

しかし、中島氏の理性万能主義に対する懐疑は一貫してないように感じる。例えば、以下のように自動車事故と原発事故のリスクの比較では、理性的な考え方にも言及しているのである。

 原発も、同様の前提の下で考える必要があります。原発のリスクと利便性を天秤にかけたとき、どのような判断をするべきかを考える必要があります。

 自動車も飛行機も、確かにリスクのある存在です。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)、相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。

このように、中島氏は自動車事故と原発事故のリスクとベネフィットを比較して原発に否定的なのだが、なぜこのような理性主義的な比較論には懐疑を示さないのか。「このようなリスクの比較は本当に正しいのか分からない。なぜなら人間の知性には限界があるからだ」と言わないのは何故だろうか。

中島氏が上記論文で行っているのは、「理性万能主義に対する懐疑」ではなく「理性主義的な懐疑」のように思われる。つまり、氏が行っているのは、「具体的な事柄に対して理論的、経験的根拠を示した上で、疑問を呈する」という知の営みである。それは、「人間の知性には限界があるから理性に全幅の信頼は置けない」という懐疑の態度とは異なる。

そして「理性万能主義に対する懐疑」という態度を取ると、理性主義のつまみ食いになるのではないか。ある時は、「人間の知性には限界があるから」と理性主義的な考え方そのものを否定し、別の場面では理性主義的な懐疑論を展開する。また、別のある時は理性主義的な改革論を唱え、それを漸進主義と言い換える。中島氏に限らず、保守系知識人にはこのような矛盾が罷り通っているように感じられるのだ。

2015年5月15日金曜日

護憲派に対する違和感

戦後の憲法9条の政府解釈は法治主義に反する屁理屈であり、自衛隊は違憲である。しかし、国防組織が必要なのは疑いないので、憲法9条を改正して明確に自衛権に基づく戦争(自衛戦争、予防戦争、制裁戦争)を認め自衛隊を合憲と位置付けた上で、併せて侵略戦争を禁ずる規定を追加するべきだろう。

憲法9条は政府首脳の善意によって運用されていると思う。憲法9条の政府解釈(自衛行動[交戦権なき自衛戦争]という概念を恣意的に作り出す)と同じ態度で三権分立や参政権を解釈すれば、日本は法治国家ではなくなっていただろう。憲法9条以外は法治主義に沿った妥当な解釈を行い、ただ9条のみを法治主義に反する解釈をして政権運営を行っている。これが実現していたのは、閣僚や官僚幹部の善意だと私は推測している。そしてこの善意は、敗戦による主権消滅の恐怖体験によって成立していたと思う。また、自衛隊合憲の政府解釈もこの恐怖体験が元になっているのだろう(自衛隊が存在しないと主権国家を維持できない)。いずれも無意識的なものだろうが。

しかし時は過ぎ、敗戦による主権消滅の恐怖感も無くなってしまった。そろそろ法治主義に反する危険な9条解釈を止める時期である。そうしないと、官僚や政治家の中に悪意を持って法治主義を破壊する実力者が将来現れた時に、その人を牽制できなくなる(その悪人は今は小学生かもしれないし、未だ生まれていないかもしれない。いずれにしても、その潜在的な悪人を抑止する法制度を作る必要がある)。

しかし、単に憲法9条で自衛権に基づく戦争を認めるだけでは足りず、侵略戦争を明確に定義してそれを禁ずるべきだ。なぜなら、過去において侵略戦争と銘打って開戦した国は存在しないからである。何が侵略戦争なのかを明確に定義し、侵略戦争を自衛権に基づく戦争だと政府にカモフラージュされるのを防ぐ必要がある。それには、太平洋戦争や日中十五年戦争を実行した動機の中で、何が正義に反するものだったのかを明らかにする必要がある。しかし、その作業を始めた場合、中韓が外交カードとして使って日本に謝罪を求めてくるだろう。

そこが保守派のジレンマである。本当のところ過去を反省したいのだが、他国を不当に利するのは避けたい。残念ながら、国際政治においては未だ弱肉強食の側面があり、自国に不利なることを自ら行い、安易に他国を利するわけにはいかないのだ。

いわゆる護憲派は、本来は、太平洋戦争を侵略戦争とした上で批判し、憲法9条を改正して自衛隊を国防軍に格上げするとともに、明確に定義された侵略戦争を禁止する規定を憲法に追加すべきだった。しかし、自衛権に基づく戦争も含めて単に戦争を行う能力を否定してしまい、丸腰になるのが理想と説いた。北朝鮮や旧ソ連、中国の脅威が現実に存在したのに非現実的である。

彼らは「戦争反対」と言うが、これは不正確な表現である。「侵略戦争反対」と言うべきで自衛権に基づく戦争は容認すべきだった。

例えば、警察の不祥事を防止する対策は、警察組織を消滅させることではない。確かに警察組織が消滅すれば原理的に警察不祥事は発生しなくなるが、それでは一般の犯罪が処罰されなくなってしまう。警察不祥事の防止に求められるのは、不祥事を防止する具体的な施策であり、警察組織の消滅ではない。同様に、軍組織暴走の防止に必要なのは、その暴走を防ぐ具体的な施策(三権分立や、首相への全権力と全責任の集中、侵略戦争の明確な定義と禁止)であり、軍組織そのものの消滅ではない。それでは他国に簡単に侵略されてしまう。

あまつさえ、非武装中立は資本主義の間だけで、社会主義革命後は武装化してワルシャワ条約機構に加入すべきと明言する者もいた。(向坂逸郎など)。護憲派が信頼を失うのはあまりに当然である。

2015年1月29日木曜日

言葉遊びとしての憲法9条の政府解釈

全く時機を逃したように感じるが、遅まきながら政府の憲法9条の解釈について考えてみたい。本記事で縷々説明しているが、要するに政府の9条解釈は言葉遊びだと結論せざるを得ない。そして、憲法9条を改正すべきだと考えている。

まず、安倍首相の集団的自衛権容認以前の政府解釈から議論を始めよう。

はじめに9条の条文を引用しておこう。
第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊の存在を合憲としたい。でも戦力と交戦権はどうしよう・・・

政府の9条解釈の一番重要な出発点は、自衛隊の存在を合憲としたい、ということだ。決して、9条の条文を検討して「自衛隊は合憲だろうか・・・。うむ、検討した結果、合憲だ」などと考えたわけではないと思われる。「国を守るためには国防組織が必要なのは論を待たない。しかし、自衛隊は一見すると9条に違反するように思われる。どうしたらいいだろうか」。自衛隊発足当時の政府首脳はこう考えたのだろう。

9条1項は以下のようになっている。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

これに対して政府首脳は、「これは要するに、侵略戦争を否定したものと解釈しよう。自衛戦争は否定されていないのだ」と考えたようだ。そのロジックは以下の通り。

  • 「国権の発動たる」は、「国家の行為としての」という意味の「戦争」にかかる修飾語に過ぎない。「国権の発動たる戦争」とは、「国家の行為としての国際法上の戦争」というような意味で、単に「戦争」と言うのとその意味は変わらない。
  • 「国際紛争を解決する手段としての戦争」は、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味で、具体的には侵略戦争を意味するとしている。
以上のような解釈を経て条文を書き換えると、下記となる。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、侵略戦争を永久に放棄する。」

なるほど、これなら自衛隊は否定されない。自衛隊はその名の通り、自衛戦争のための国防組織だからだ。ここまでは分かりやすい。しかし、本当の関門は9条2項にあった。

9条2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

戦力を保持しない、交戦権を認めない・・・。自衛隊が戦力を有することは自明であり、また自衛戦争でも交戦権を行使することは避けれらないように思われる。このような条文において、自衛隊はどうして合憲とできようか。ところが政府は以下に展開するロジックで、「自衛隊は合憲」とアクロバチックに結論に至るのである。

まず、「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える

憲法9条の政府解釈の肝は、まず最初に「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える点にある。憲法9条を以って日本の戦争に関する権能を全て定めているような感覚を筆者は持っていたのだが、その感覚を引きずっていると政府解釈が意味不明な印象を与えることになる。まずは9条の存在をきれいサッパリ忘れてしまいましょう。

政府解釈は、「憲法9条が仮に無かったとしたら、国際法上、日本はどのような戦争に関する権利を有しているか」と考える。この問いに対して政府解釈は、「国際慣習法と国連憲章第51条によって、国際法上、日本は自衛権(個別的自衛権と集団的自衛権)を有する」と答える。その自衛権の具体的内容を以下の表にまとめた。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

用語 定義 個別的か集団的か
自衛戦争 単純に攻撃を受けたから防御する戦争 個別的自衛権
予防戦争 実際に攻撃を受ける前でも、相手国の動きを封じ込めるために、先制攻撃をかける戦争 個別的自衛権
制裁戦争 自国が侵略を受けなくても、他国が侵略を受けた場合に、被侵略国に助力し、侵略国に制裁を加える戦争 集団的自衛権

否定されてない権能を探すパズルゲーム

政府解釈を理解する肝の二つ目は、政府解釈を、否定されてない権能を探すゲームであると捉えることである。まず、憲法9条が仮に無かった場合に日本に国際法上認められる権能をリストアップし、その内、何が憲法9条(特に2項)によって否定されていないかを探すゲーム(否定されていないというロジックを作るゲーム)と考えると、政府解釈の意図は理解しやすくなる。その時の基本戦略は、用語を細かく分類したり厳密に定義することである。こうすることで、憲法9条で否定されていない権能を切り出しやすくなる。

以上を踏まえて政府解釈を極限まで単純化すると、以下の式にまとめられる。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

つまり、国際法上、日本には自衛権が認められているが、そこから憲法9条第2項で否定されている戦力と交戦権を差し引けば、それが日本に認められた自衛に関する権能である。言い換えれば、自衛権の内、憲法9条第2項で否定されていない部分が、自衛隊に認められた権能である。これが、政府解釈を極限まで単純化した要約である。

そこでまず、戦力について考えよう。普通に考えると自衛隊は戦力を持っているように感じられるが、これは憲法9条第2項に違反しないのだろうか。

実は、政府解釈では自衛隊は戦力を持っていない。代わりに、「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていると政府は言うのである。

両者の違いは何なのか。政府解釈では、戦力とは、「自衛のための必要最低限度を超えるもの(武力)」と定義している。超えないものが、「自衛のための必要最小限度の武力」である。

なぜこんな解釈をしているのかというと、先に書いた通り、政府にとって9条解釈は否定されていない権能を探すゲームだからであろう。そうしないと自衛隊が合憲にならないのである。一応、このように戦力を定義する根拠として、「憲法9条が自衛権を否定してないからだ(否定されているのは戦力と交戦権だけ)。だから、自衛権を肯定する形で戦力を定義すると、戦力とは自衛のための必要最低限度を超える武力である。超えない武力は合憲」と政府は主張する。しかし、通常の国語能力がある人が9条の条文を読んで、そもそもこの規定が自衛権を認めていると解釈するだろうか。難しいであろう。

ちなみに「自衛のための必要最小限度の武力」でも、武力であることには変わりないため9条第1項に反するように思われるが、これには政府は次のように反論する。すなわち、第1項で否定されているのは「国際紛争を解決する手段として」の武力であり、自衛のための武力は認められている、と。

ともかく政府解釈では、自衛隊は戦力の代わりに「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていることになっているので、この組織は合憲と位置付けることが可能になる。

次に、交戦権否認の規定を考えよう。政府は自衛戦争に以下のような分類を増やした。

  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

「つまり、自衛戦争とひと口に言うが、それは、交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)と交戦権がない自衛戦争に分けることができる。交戦権がない自衛戦争は、自衛行動と呼ぼう」。こう、政府は言うのである。

次に、交戦権に厳密な定義を与えよう。
  • 交戦権とは、「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であり、「相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むもの」である。
上記の定義を踏まえたうえで、では交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)とは何か。政府は以下のように言う。

  • 自衛行動とは、「外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使」をいう。
ところで、上記のように自衛行動を定義すると、では交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)とは何だろうか。これについては政府の見解がよく分からない所もあるのだが、おそらく以下のようなものだろう。すなわち、交戦権がある自衛戦争とは、「外国からの武力攻撃に対して、これを排除するために行われる実力行使。必要最小限の反撃である必要はないし、他に有効、適切な手段がないとまでは言えない場合でも武力行使可能である。また交戦権があるので、相手国の占領も可能」というものだろう。

なお、交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)と、交戦権がある自衛戦争の実質的な違いは、相手国の占領が可能か否かの一点であるように思われる(必要最小限の実力行使を超えるため、自衛行動では相手国の占領は不可)。それ以外の点において、両者には外観上は重複する行為(相手国兵士の殺傷と破壊など)があるが、それらの行為は観念的には異なるとする(防衛省の解釈)。

さて話を戻して、「自衛隊は自衛行動を実行するために存在している」と位置付けよう。そうすると、あら不思議、一見すると9条2項の交戦権否認の規定に反するかに思われた自衛隊は、立派に合憲となることができた。

以上のように戦力と交戦権の概念操作を経て、自衛隊は合憲と位置付けられている。

集団的自衛権も合憲としたい

ところが時は過ぎ、このアクロバチックな解釈にも問題が生じてきた。最初に掲げた自衛戦争の定義を、もう一度確認してもらいたい。自衛戦争は個別的自衛権に分類されるのである。したがって個別的自衛権においては、例えば、米軍と自衛隊が軍事演習中に米軍だけ中国から攻撃された場合でも、集団的自衛権を行使できないので自衛隊は傍観することになる。より具体的な外交事情として、尖閣諸島等の離島防衛強化に米軍に協力してもらうのと引き換えに、集団的自衛権の容認をアメリカに求められたという経緯があるようだ(NHK「自衛隊はどう変わるのか ~安保法施行まで3か月~」)。

そこで安倍政権は、集団的自衛権も合憲だという以下のような見解を打ち出した。

(武力行使の新3要件) 
(1)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、(3)必要最小限度の実力を行使する。

これはどう考えればいいのだろうか。やはり、考え方の起点は先に示したあの式である。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

戦力不保持の規定に対する政府のロジックは、簡単である。「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に」この長い要件は、一言、「自衛のために」に置き換える。すると、新3要件は「自衛のために必要最小限度の実力を行使する」と要約でき、合憲とすることができる。

次に交戦権否認の規定を考えよう。自衛権に基づく戦争の階層構造をもう一度見直してみよう。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

この階層構造から考えると、制裁戦争に、「交戦権がない制裁戦争」という分類を追加すれば、集団的自衛権も合憲とすることができるのではないか。




  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争(交戦権がある制裁戦争)
      • 交戦権がない制裁戦争(武力行使新3要件の追加部分)

  • つまり、「武力行使新3要件は交戦権がない制裁戦争であり合憲である」と政府は言いたいのだろう。前述の式が示す通り、自衛のための交戦権がない戦争であれば、何でも認められると考えているようだ。従来は、「交戦権がない戦争」=自衛行動 とされてきたが、そのような一対一対応である必要はなくなり、集団的自衛権の一部も含めてよい、と考え方を変えたようだ。

    法治主義としては好ましくない

    以上のように、政府の憲法9条解釈を縷々論じてきたわけだが、やはり気になるのが法治主義の精神から乖離している点である。政府解釈は言葉遊びにしか見えない。初めに述べたとおり、そもそも自衛隊を合憲とするのをゴールとして政府解釈が展開しているようにしか、見えないのである。そして、憲法9条を法治主義に従って解釈すれば、自衛隊は違憲という結論しか出てこない。

    憲法学的議論では、憲法の条文を解釈の起点に置くべきであり、国際慣習法や国連憲章にその起点を置くべきではない。なぜなら、憲法は国の最高法規だからだ。憲法9条以外で、解釈の起点を憲法の条文以外に置いている憲法学的な議論が存在するだろうか。

    筆者は自衛隊のような国防組織は必要と考えているので、憲法9条を改正して正面から自衛権を認めるようにしたほうが良いと考える。つまり、個別的自衛権も集団的自衛権も認め、戦力不保持や交戦権否認という非現実的な制約を国に課すのをやめるべきだ。同時に、侵略戦争を9条で禁ずれば問題は生じないだろう。

    2015/12/23 戦力について追記

    2015年1月26日月曜日

    困窮者支援者の攻撃性はどこから来るのか

    困窮者支援論者の言動に違和感を感じたことはないだろうか。例えば、彼らはこのような語り方をしている。


    藤田孝典
    どの歴史書や文献を読んでみても、いつの世もクソなんだと思う。そんな世をクソだとハッキリ言えるヤツもまた少数だから、いつの時代も気づいてしまったクソ野郎はやるしかないのだろう。

    すべてに通じるが、日本は政策を企画・立案する政治・行政にほとんど貧困を経験した人がいないという致命的な欠陥がある。

    生活保護問題対策全国会議
    (引用者注。生活保護のプリペイドカード方式導入で)利益を得るのは大手カード会社だけであり,まさに国家的規模で福祉給付を利潤の源として食い物にする貧困ビジネスの始まりである。


    彼らの指摘には傾聴に値する部分もあるのだが、感情的な表現が鼻について何だが居心地の悪さを感じる。この原因は何だろうか。


    二つの立場

    私が思うに、このような困窮者支援者の攻撃的な態度は、貧困の原因をどのようなものと捉えているかにあるように思う。貧困の原因をどう見るか、その立場は大きく分けて二つある。

    一つ目の立場は、「貧困=交通事故」論者である。「毎年何万件と交通事故が起こるが、事故発生は自動車の利用の原理的必然ではない。交通事故がゼロになったからといって自動車の利用ができなくなるわけではなく、交通事故をゼロにすることは原理的には可能である。同様に、貧困も原理的にはゼロにすることができる」彼らはこのように考える。

    二つ目の立場は、「貧困=スポーツの敗者」論者である。「スポーツのルール上、敗者が存在しない状況はありえない。誰かが勝ち、別の誰かが負ける。プロ野球のリーグ戦において、最下位チームを発生させない方法というのは原理的に存在しない。つまり、スポーツの敗者の発生は原理的な必然である。同様に、経済というスポーツにおいても原理的な必然として敗者(貧困)は発生する。貧困の発生をゼロにすることは、自由市場経済の枠内では原理的に不可能である(自由市場経済の枠外である福祉政策によってのみ解決できる)」彼らはこう考える(ここでは触れないが、同じ結論をマルクス経済学の窮乏化法則に求める考え方もある)。

    困窮者支援者は、スポーツ敗者論者が多いように感じる。


    実際的な問題 モラルハザードの対策


    「貧困=スポーツの敗者」論者と「貧困=交通事故」論者の間での利害調整の対話で、実際的な問題になってくるのは、モラルハザードに対する対策をどうするかという点であろう。

    本題に入る前にモラルハザードとは何かを説明しておこう。モラルハザードとは、ある政策や契約の実行後に経済主体の振る舞いが変わることによって生じる、経済的非効率である。例えば、火災保険を締結すると、保険でカバーされるという安心感が無意識の内に火の扱いに対する注意を低下させる。そのため、火災保険締結前より火災発生率が上がり、保険料と発生率が均衡しないという問題が生じる(歴史的に保険が登場した当時の問題。現在はこのようなモラルハザードは初めから織り込まれて保険料を設定しているだろう)。生活保護の問題の場合、働かなくても生きていけるため勤労意欲が低下して、就業を妨げることが相当する。注意すべきは、モラルハザードは違法行為とは異なる問題である、という点だ。故意に火を点けて火災保険を詐取するのは単に犯罪として処罰される。生活保護の不正受給も違法行為であり、モラルハザードとは異なる。モラルハザードという概念が生まれたのは、契約違反や違法行為として抑止することが難しい点に求められる。故意に火を点けたことは証明できるが、無意識に火の扱いがぞんざいになっていることは証明できない。生活保護の不正受給は証明できるが、勤労意欲が低下して就業できないか、それとも意欲には問題ないが種々の障害があって就業につながらないのか、区別できない。モラルハザードとは、このような問題を認識するための概念である。

    さて、本題に戻ろう。「貧困=スポーツの敗者」論者と「貧困=交通事故」論者には認識の相違がある。どちらの立場を取るかで、政治的な利害調整の態度が異なってくる。具体的には、モラルハザード抑止策でもある就業者支援や生活保護の制約のあり方に対して態度が異なってくる。

    スポーツ敗者論者の立場に立つ者は、困窮者の自立支援に消極的になるだろう。特に、困窮者にある種の忍耐を要求するような政策(例えば生活保護の条件に職業訓練受講を義務化したり、生活保護費をプリペイドカードで管理する、など)に対して、反発しやすくなる。なぜなら、貧困は、スポーツの敗者のようにいかなる方法でも原理的に避けることができないものだと、彼らは考えるかだ。「確かに、困窮者に忍耐を強いる自立支援政策を施せば、その困窮者は貧困を脱するかもしれない。しかし、その人と入れ替わりで別の人が貧困に陥るだろう。スポーツに敗者がいない状態が存在しないように、自由市場経済においては誰かが困窮者になるからだ。ならば、困窮者に忍耐を求めるのは酷ではないか。どの道誰かが困窮する以上、困窮者に忍耐を求める政策は、どの時点でも必然的に誰かに忍耐を求めることになるからだ。忍耐という苦痛を原理的に避ける方法が無いならば、それは実質的に抑圧ではないのか」。「貧困=スポーツの敗者」論者は、以上のように考える。

    これに対して交通事故論者は、困窮者に忍耐を求める政策にも消極的ではない。貧困が無い世界というのは、交通事故が無い世界のように、原理的には存在しうるからだ。今の所は交通事故をゼロにする現実的な方法は無いが、道路交通法に厳しい罰則を設けることなどで、事故を減らすことができる(実際、航空業界の場合はパイロットの数がドライバーより圧倒的に少ないため、政府による高度な安全管理が可能であり、事故がゼロに近い)。同様に、困窮者に忍耐を求める政策によって貧困を減らすことができるだろう。「貧困=交通事故」論者以上のように考える。

    これらの対立の存在を示唆する結果がある。「湯浅誠 モラルハザード」や「藤田孝典  モラルハザード」で検索して見ると、湯浅氏や藤田氏自身がモラルハザードについて語った文章がほぼヒットしないのである。御二人は貧困問題について活発な活動をされているが、モラルハザードの抑止策についてほとんど議論されていない。困窮者支援の実効性と両立するモラルハザード抑止策はどのようなものか、御二人には議論してもらいたいのだが。


    感情的な問題 発生責任と解決責任

    前節の対立を感情的な面からもう一度分析してみよう。この対立は、貧困の発生責任はどこにあるのかという認識の違いに起因するように思われる。

    スポーツ敗者論者は、貧困の発生責任は社会にあると考える。スポーツにおける敗者のように、貧困発生は自由市場経済における原理的必然だからである。そして、発生責任が社会にある以上、当然その解決責任も社会にある。ところで、発生責任が社会にある以上、解決責任とは要するに賠償責任を意味する。すなわち、社会による福祉政策は困窮者に対する償いなのだ。スポーツ敗者論者は以上のように考える。

    他方、交通事故論者は、貧困の発生責任は社会にはないと考える。交通事故の場合、その発生責任は社会にも警察にもないのと同様である。ある人が貧困に陥った原因は、家庭環境の悪さかもしれないし、本人の病気のためかもしれないし、不況のためかもしれないし、本人の怠慢かもしれない。しかし、いずれにしても社会には発生責任はない。社会がその人に貧困を強いているのではない。

    しかし、交通事故と同様にその解決責任は社会にある。交通事故が起こったら、警察(社会)は実況見分し被疑者を起訴して解決する義務を負う。また、自賠責保険によって補償される。貧困の場合も、生活保護その他の福祉政策を通じて、社会には解決責任がある。

    ところで、なぜ発生責任がないのに解決責任が社会に生じるのか。それはこれらの問題を放置すれば、いずれ社会が崩壊するからである。犯罪や交通事故の発生責任が社会にないからといって、放置すれば社会は崩壊してしまう。同様に貧困を放置すれば社会崩壊につながりうる。貧困層の子弟には優秀な人もいるかもしれないし、貧困層の不満によって暴動が起こるかもしれない。いずれにしても、社会崩壊の危険性を高める。つまり、解決責任とは具体的には社会を維持する政策を意味する。交通事故論者は以上のように考える。

    償い社会を維持する政策、この両者にはそれに伴う感情が異なる。償いに伴う感情は怒りである。困窮者支援者が「生活保護は当然の権利」と言う時、その背後には償う状況を作った社会に対する怒りがある(しかし多くの人はこの怒りが分からないので、傲慢な印象を受ける)。一方で社会を維持する政策に伴う感情は、何が効果的かという計算である。交通事故防止に関して、道路交通法はドライバーだけでなく、事故時に命を落とす場合が多い歩行者にも交通ルールを課している。交通弱者である歩行者にも交通ルールを課した方が、事故がより起こりにくくなるという計算が背後にあるためだ。同様に、生活保護を論じる時に困窮者に忍耐を求める政策にも彼らは好意的になる。その方がより貧困を減らすのに効果的だからである。例えば、生活保護費をプリペイドカードで管理する案は、単に働きたくない人のモラルハザードを抑止しつつ、困窮者の浪費も抑止でき、一石二鳥であると交通事故論者は考える。しかし、スポーツ敗者論者は、償う相手(困窮者)に忍耐を求めることに「何様のつもりだ、実質的に加害者の分際で」と反発するだろう。

    ところで今から10年ほど前に、貧困は自己責任か社会責任かという議論があり、湯浅誠氏(その他の困窮者支援者も)は貧困は社会責任と主張した。彼等のの主張を聞いて、正しいのだが何か違和感を持っていた。そして、その原因は発生責任と解決責任を混同していたことによると今にして思う。つまり、「貧困は社会責任だ」という主張は、純粋に文言だけに注目すると、「貧困の発生責任は社会にあり、償いとしての解決責任も社会にある」という意味と、「貧困の解決責任は社会にあるが、発生責任は社会にはない」という意味の、二つに解釈できるという曖昧さがあったのだ。この曖昧さが違和感の原因だったのだろう。


    ミクロ経済学を論じたいが...

    このようなすれ違いが両者の利害調整を困難にして、社会的な分裂を深めつつあると思う。筆者個人としては、貧困は交通事故のようなものだと考える。それは原理的な必然ではない。その根拠はミクロ経済学(の純粋交換理論)に求めるのだが、今は日常生活が忙しくて詳しく論じる時間がない。


    2015年1月23日金曜日

    自己責任論の誤り 人質に責任は無く、迂闊なだけである

    イスラム国による、湯川遥菜さんと後藤健二さんの日本人二人の人質事件において、「自己責任なので殺されても仕方がない」という議論がネット上で噴出している。しかしこれは、自己責任と、迂闊な行為(自ら外国の危険地帯に行くという)への非難を、混同した誤った議論である。

    どうして、このような混同が生じたのだろうか。

    今回の人質事件の発生責任は明らかにイスラム国のテロリストにあり、被害者である二人にはもちろん、日本政府にも存在しない。しかし、この事件の解決責任は日本政府にある。これは国内における犯罪の扱いと同じである。犯罪行為の発生責任は加害者にあり、被害者にも警察にも存在しない。しかし、その解決責任は警察にあり、適切に捜査して被疑者を逮捕し、訴追する責任がある。

    2002年のイラク日本人人質事件において、被害者家族が日本政府に発生責任があるかのような発言を繰り返した。おそらく、この発言に対する反論の意味を込めて、当時の福田官房長官が自己責任という言葉を使ったのだろう。

    しかし、やはりこの用語の使い方は当時においても不適切だったと思う。この用語は、一般的には瑕疵担保責任や過失による不法行為責任などの賠償責任の免責を表す言葉である(例えば、「このフリーソフトウェアを使用する場合、そのバグによる損害は自己責任でお願いします」などの注意書き)。これはリスクある行為の損害(ソフトウェアの使用で稀に起きるデータ消失や、投資の失敗など)を誰が負担するかという文脈の議論であり、それをリスクを理解した上で自ら選択した行為者本人(ソフトウェアの利用者本人、投資家本人)とするのが自己責任の意味する所であろう。そして、これは民事上の賠償責任を念頭に置いた用語であり、刑事上の用語ではない。

    福田官房長官は単に、「人質事件の発生責任は日本政府には無い」と言いたかったのだろう。しかし、それはイコール「被害者に自己責任がある」ということまで意味しない。おそらく、「イラクの危険地域に行くというリスクある行為を自ら選択した」という点と、自己責任の「リスクある行為を自ら選択する」という点の類似性を以って、両者を同一視したのだろう。しかし、人質事件はソフトウェアのバグではなく投資の失敗でもなく、単に犯罪である。民事上の概念である自己責任を刑事上の議論に関連付けるのは誤っている。

    もちろん、人質に何ら非難すべき点がないわけではない。わざわざ外国の危険地域に行き、懸念された通り犯罪に巻き込まれたのだから、彼らは迂闊であると非難されるべきだ。しかし、責任という用語を用いて非難すべきではない。犯罪の被害者には、いかなる責任もない。

    これらの混同によって、誤った(あるいはバランスを欠いた)議論につながってる。

    例えば最初にも言及したように、主にネット上の保守派を中心に「自己責任だから人質を助ける必要はない」という誤った議論を引き起こし、政府の邦人保護義務(解決責任)をないがしろにする認識につながっている。他方で左派を中心に、自己責任論の誤りを指摘して犯人の責任(発生責任)と政府の邦人保護義務に言及するが、そこで思考は停止し、人質の迂闊な行為(わざわざ外国の危険地帯に行くという)は批判しない。

    あれから10年以上経過したが、未だに以上のような混同をして(ネット上の)保守派と左派がかみ合わない議論をするのは、何故なのだろうか。

    ※お二人の死については非常に残念です。ご冥福をお祈りいたします。お二人への批判の言葉が不適切と考え、一部修正します。