2015年1月29日木曜日

言葉遊びとしての憲法9条の政府解釈

全く時機を逃したように感じるが、遅まきながら政府の憲法9条の解釈について考えてみたい。本記事で縷々説明しているが、要するに政府の9条解釈は言葉遊びだと結論せざるを得ない。そして、憲法9条を改正すべきだと考えている。

まず、安倍首相の集団的自衛権容認以前の政府解釈から議論を始めよう。

はじめに9条の条文を引用しておこう。
第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊の存在を合憲としたい。でも戦力と交戦権はどうしよう・・・

政府の9条解釈の一番重要な出発点は、自衛隊の存在を合憲としたい、ということだ。決して、9条の条文を検討して「自衛隊は合憲だろうか・・・。うむ、検討した結果、合憲だ」などと考えたわけではないと思われる。「国を守るためには国防組織が必要なのは論を待たない。しかし、自衛隊は一見すると9条に違反するように思われる。どうしたらいいだろうか」。自衛隊発足当時の政府首脳はこう考えたのだろう。

9条1項は以下のようになっている。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

これに対して政府首脳は、「これは要するに、侵略戦争を否定したものと解釈しよう。自衛戦争は否定されていないのだ」と考えたようだ。そのロジックは以下の通り。

  • 「国権の発動たる」は、「国家の行為としての」という意味の「戦争」にかかる修飾語に過ぎない。「国権の発動たる戦争」とは、「国家の行為としての国際法上の戦争」というような意味で、単に「戦争」と言うのとその意味は変わらない。
  • 「国際紛争を解決する手段としての戦争」は、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味で、具体的には侵略戦争を意味するとしている。
以上のような解釈を経て条文を書き換えると、下記となる。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、侵略戦争を永久に放棄する。」

なるほど、これなら自衛隊は否定されない。自衛隊はその名の通り、自衛戦争のための国防組織だからだ。ここまでは分かりやすい。しかし、本当の関門は9条2項にあった。

9条2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

戦力を保持しない、交戦権を認めない・・・。自衛隊が戦力を有することは自明であり、また自衛戦争でも交戦権を行使することは避けれらないように思われる。このような条文において、自衛隊はどうして合憲とできようか。ところが政府は以下に展開するロジックで、「自衛隊は合憲」とアクロバチックに結論に至るのである。

まず、「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える

憲法9条の政府解釈の肝は、まず最初に「憲法9条が仮に無かったとしたら」と考える点にある。憲法9条を以って日本の戦争に関する権能を全て定めているような感覚を筆者は持っていたのだが、その感覚を引きずっていると政府解釈が意味不明な印象を与えることになる。まずは9条の存在をきれいサッパリ忘れてしまいましょう。

政府解釈は、「憲法9条が仮に無かったとしたら、国際法上、日本はどのような戦争に関する権利を有しているか」と考える。この問いに対して政府解釈は、「国際慣習法と国連憲章第51条によって、国際法上、日本は自衛権(個別的自衛権と集団的自衛権)を有する」と答える。その自衛権の具体的内容を以下の表にまとめた。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

用語 定義 個別的か集団的か
自衛戦争 単純に攻撃を受けたから防御する戦争 個別的自衛権
予防戦争 実際に攻撃を受ける前でも、相手国の動きを封じ込めるために、先制攻撃をかける戦争 個別的自衛権
制裁戦争 自国が侵略を受けなくても、他国が侵略を受けた場合に、被侵略国に助力し、侵略国に制裁を加える戦争 集団的自衛権

否定されてない権能を探すパズルゲーム

政府解釈を理解する肝の二つ目は、政府解釈を、否定されてない権能を探すゲームであると捉えることである。まず、憲法9条が仮に無かった場合に日本に国際法上認められる権能をリストアップし、その内、何が憲法9条(特に2項)によって否定されていないかを探すゲーム(否定されていないというロジックを作るゲーム)と考えると、政府解釈の意図は理解しやすくなる。その時の基本戦略は、用語を細かく分類したり厳密に定義することである。こうすることで、憲法9条で否定されていない権能を切り出しやすくなる。

以上を踏まえて政府解釈を極限まで単純化すると、以下の式にまとめられる。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

つまり、国際法上、日本には自衛権が認められているが、そこから憲法9条第2項で否定されている戦力と交戦権を差し引けば、それが日本に認められた自衛に関する権能である。言い換えれば、自衛権の内、憲法9条第2項で否定されていない部分が、自衛隊に認められた権能である。これが、政府解釈を極限まで単純化した要約である。

そこでまず、戦力について考えよう。普通に考えると自衛隊は戦力を持っているように感じられるが、これは憲法9条第2項に違反しないのだろうか。

実は、政府解釈では自衛隊は戦力を持っていない。代わりに、「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていると政府は言うのである。

両者の違いは何なのか。政府解釈では、戦力とは、「自衛のための必要最低限度を超えるもの(武力)」と定義している。超えないものが、「自衛のための必要最小限度の武力」である。

なぜこんな解釈をしているのかというと、先に書いた通り、政府にとって9条解釈は否定されていない権能を探すゲームだからであろう。そうしないと自衛隊が合憲にならないのである。一応、このように戦力を定義する根拠として、「憲法9条が自衛権を否定してないからだ(否定されているのは戦力と交戦権だけ)。だから、自衛権を肯定する形で戦力を定義すると、戦力とは自衛のための必要最低限度を超える武力である。超えない武力は合憲」と政府は主張する。しかし、通常の国語能力がある人が9条の条文を読んで、そもそもこの規定が自衛権を認めていると解釈するだろうか。難しいであろう。

ちなみに「自衛のための必要最小限度の武力」でも、武力であることには変わりないため9条第1項に反するように思われるが、これには政府は次のように反論する。すなわち、第1項で否定されているのは「国際紛争を解決する手段として」の武力であり、自衛のための武力は認められている、と。

ともかく政府解釈では、自衛隊は戦力の代わりに「自衛のための必要最小限度の武力」を持っていることになっているので、この組織は合憲と位置付けることが可能になる。

次に、交戦権否認の規定を考えよう。政府は自衛戦争に以下のような分類を増やした。

  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

「つまり、自衛戦争とひと口に言うが、それは、交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)と交戦権がない自衛戦争に分けることができる。交戦権がない自衛戦争は、自衛行動と呼ぼう」。こう、政府は言うのである。

次に、交戦権に厳密な定義を与えよう。
  • 交戦権とは、「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であり、「相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むもの」である。
上記の定義を踏まえたうえで、では交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)とは何か。政府は以下のように言う。

  • 自衛行動とは、「外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使」をいう。
ところで、上記のように自衛行動を定義すると、では交戦権がある自衛戦争(本来の意味での自衛戦争)とは何だろうか。これについては政府の見解がよく分からない所もあるのだが、おそらく以下のようなものだろう。すなわち、交戦権がある自衛戦争とは、「外国からの武力攻撃に対して、これを排除するために行われる実力行使。必要最小限の反撃である必要はないし、他に有効、適切な手段がないとまでは言えない場合でも武力行使可能である。また交戦権があるので、相手国の占領も可能」というものだろう。

なお、交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)と、交戦権がある自衛戦争の実質的な違いは、相手国の占領が可能か否かの一点であるように思われる(必要最小限の実力行使を超えるため、自衛行動では相手国の占領は不可)。それ以外の点において、両者には外観上は重複する行為(相手国兵士の殺傷と破壊など)があるが、それらの行為は観念的には異なるとする(防衛省の解釈)。

さて話を戻して、「自衛隊は自衛行動を実行するために存在している」と位置付けよう。そうすると、あら不思議、一見すると9条2項の交戦権否認の規定に反するかに思われた自衛隊は、立派に合憲となることができた。

以上のように戦力と交戦権の概念操作を経て、自衛隊は合憲と位置付けられている。

集団的自衛権も合憲としたい

ところが時は過ぎ、このアクロバチックな解釈にも問題が生じてきた。最初に掲げた自衛戦争の定義を、もう一度確認してもらいたい。自衛戦争は個別的自衛権に分類されるのである。したがって個別的自衛権においては、例えば、米軍と自衛隊が軍事演習中に米軍だけ中国から攻撃された場合でも、集団的自衛権を行使できないので自衛隊は傍観することになる。より具体的な外交事情として、尖閣諸島等の離島防衛強化に米軍に協力してもらうのと引き換えに、集団的自衛権の容認をアメリカに求められたという経緯があるようだ(NHK「自衛隊はどう変わるのか ~安保法施行まで3か月~」)。

そこで安倍政権は、集団的自衛権も合憲だという以下のような見解を打ち出した。

(武力行使の新3要件) 
(1)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、(3)必要最小限度の実力を行使する。

これはどう考えればいいのだろうか。やはり、考え方の起点は先に示したあの式である。

日本に認められた自衛に関する権能 =
自衛権 - ( 戦力 + 交戦権 )

戦力不保持の規定に対する政府のロジックは、簡単である。「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に」この長い要件は、一言、「自衛のために」に置き換える。すると、新3要件は「自衛のために必要最小限度の実力を行使する」と要約でき、合憲とすることができる。

次に交戦権否認の規定を考えよう。自衛権に基づく戦争の階層構造をもう一度見直してみよう。
  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争

この階層構造から考えると、制裁戦争に、「交戦権がない制裁戦争」という分類を追加すれば、集団的自衛権も合憲とすることができるのではないか。




  • 自衛権に基づく戦争
    • 自衛戦争(交戦権がある自衛戦争)
      • 交戦権がない自衛戦争(=自衛行動)
    • 予防戦争
    • 制裁戦争(交戦権がある制裁戦争)
      • 交戦権がない制裁戦争(武力行使新3要件の追加部分)

  • つまり、「武力行使新3要件は交戦権がない制裁戦争であり合憲である」と政府は言いたいのだろう。前述の式が示す通り、自衛のための交戦権がない戦争であれば、何でも認められると考えているようだ。従来は、「交戦権がない戦争」=自衛行動 とされてきたが、そのような一対一対応である必要はなくなり、集団的自衛権の一部も含めてよい、と考え方を変えたようだ。

    法治主義としては好ましくない

    以上のように、政府の憲法9条解釈を縷々論じてきたわけだが、やはり気になるのが法治主義の精神から乖離している点である。政府解釈は言葉遊びにしか見えない。初めに述べたとおり、そもそも自衛隊を合憲とするのをゴールとして政府解釈が展開しているようにしか、見えないのである。そして、憲法9条を法治主義に従って解釈すれば、自衛隊は違憲という結論しか出てこない。

    憲法学的議論では、憲法の条文を解釈の起点に置くべきであり、国際慣習法や国連憲章にその起点を置くべきではない。なぜなら、憲法は国の最高法規だからだ。憲法9条以外で、解釈の起点を憲法の条文以外に置いている憲法学的な議論が存在するだろうか。

    筆者は自衛隊のような国防組織は必要と考えているので、憲法9条を改正して正面から自衛権を認めるようにしたほうが良いと考える。つまり、個別的自衛権も集団的自衛権も認め、戦力不保持や交戦権否認という非現実的な制約を国に課すのをやめるべきだ。同時に、侵略戦争を9条で禁ずれば問題は生じないだろう。

    2015/12/23 戦力について追記

    2015年1月26日月曜日

    困窮者支援者の攻撃性はどこから来るのか

    困窮者支援論者の言動に違和感を感じたことはないだろうか。例えば、彼らはこのような語り方をしている。


    藤田孝典
    どの歴史書や文献を読んでみても、いつの世もクソなんだと思う。そんな世をクソだとハッキリ言えるヤツもまた少数だから、いつの時代も気づいてしまったクソ野郎はやるしかないのだろう。

    すべてに通じるが、日本は政策を企画・立案する政治・行政にほとんど貧困を経験した人がいないという致命的な欠陥がある。

    生活保護問題対策全国会議
    (引用者注。生活保護のプリペイドカード方式導入で)利益を得るのは大手カード会社だけであり,まさに国家的規模で福祉給付を利潤の源として食い物にする貧困ビジネスの始まりである。


    彼らの指摘には傾聴に値する部分もあるのだが、感情的な表現が鼻について何だが居心地の悪さを感じる。この原因は何だろうか。


    二つの立場

    私が思うに、このような困窮者支援者の攻撃的な態度は、貧困の原因をどのようなものと捉えているかにあるように思う。貧困の原因をどう見るか、その立場は大きく分けて二つある。

    一つ目の立場は、「貧困=交通事故」論者である。「毎年何万件と交通事故が起こるが、事故発生は自動車の利用の原理的必然ではない。交通事故がゼロになったからといって自動車の利用ができなくなるわけではなく、交通事故をゼロにすることは原理的には可能である。同様に、貧困も原理的にはゼロにすることができる」彼らはこのように考える。

    二つ目の立場は、「貧困=スポーツの敗者」論者である。「スポーツのルール上、敗者が存在しない状況はありえない。誰かが勝ち、別の誰かが負ける。プロ野球のリーグ戦において、最下位チームを発生させない方法というのは原理的に存在しない。つまり、スポーツの敗者の発生は原理的な必然である。同様に、経済というスポーツにおいても原理的な必然として敗者(貧困)は発生する。貧困の発生をゼロにすることは、自由市場経済の枠内では原理的に不可能である(自由市場経済の枠外である福祉政策によってのみ解決できる)」彼らはこう考える(ここでは触れないが、同じ結論をマルクス経済学の窮乏化法則に求める考え方もある)。

    困窮者支援者は、スポーツ敗者論者が多いように感じる。


    実際的な問題 モラルハザードの対策


    「貧困=スポーツの敗者」論者と「貧困=交通事故」論者の間での利害調整の対話で、実際的な問題になってくるのは、モラルハザードに対する対策をどうするかという点であろう。

    本題に入る前にモラルハザードとは何かを説明しておこう。モラルハザードとは、ある政策や契約の実行後に経済主体の振る舞いが変わることによって生じる、経済的非効率である。例えば、火災保険を締結すると、保険でカバーされるという安心感が無意識の内に火の扱いに対する注意を低下させる。そのため、火災保険締結前より火災発生率が上がり、保険料と発生率が均衡しないという問題が生じる(歴史的に保険が登場した当時の問題。現在はこのようなモラルハザードは初めから織り込まれて保険料を設定しているだろう)。生活保護の問題の場合、働かなくても生きていけるため勤労意欲が低下して、就業を妨げることが相当する。注意すべきは、モラルハザードは違法行為とは異なる問題である、という点だ。故意に火を点けて火災保険を詐取するのは単に犯罪として処罰される。生活保護の不正受給も違法行為であり、モラルハザードとは異なる。モラルハザードという概念が生まれたのは、契約違反や違法行為として抑止することが難しい点に求められる。故意に火を点けたことは証明できるが、無意識に火の扱いがぞんざいになっていることは証明できない。生活保護の不正受給は証明できるが、勤労意欲が低下して就業できないか、それとも意欲には問題ないが種々の障害があって就業につながらないのか、区別できない。モラルハザードとは、このような問題を認識するための概念である。

    さて、本題に戻ろう。「貧困=スポーツの敗者」論者と「貧困=交通事故」論者には認識の相違がある。どちらの立場を取るかで、政治的な利害調整の態度が異なってくる。具体的には、モラルハザード抑止策でもある就業者支援や生活保護の制約のあり方に対して態度が異なってくる。

    スポーツ敗者論者の立場に立つ者は、困窮者の自立支援に消極的になるだろう。特に、困窮者にある種の忍耐を要求するような政策(例えば生活保護の条件に職業訓練受講を義務化したり、生活保護費をプリペイドカードで管理する、など)に対して、反発しやすくなる。なぜなら、貧困は、スポーツの敗者のようにいかなる方法でも原理的に避けることができないものだと、彼らは考えるかだ。「確かに、困窮者に忍耐を強いる自立支援政策を施せば、その困窮者は貧困を脱するかもしれない。しかし、その人と入れ替わりで別の人が貧困に陥るだろう。スポーツに敗者がいない状態が存在しないように、自由市場経済においては誰かが困窮者になるからだ。ならば、困窮者に忍耐を求めるのは酷ではないか。どの道誰かが困窮する以上、困窮者に忍耐を求める政策は、どの時点でも必然的に誰かに忍耐を求めることになるからだ。忍耐という苦痛を原理的に避ける方法が無いならば、それは実質的に抑圧ではないのか」。「貧困=スポーツの敗者」論者は、以上のように考える。

    これに対して交通事故論者は、困窮者に忍耐を求める政策にも消極的ではない。貧困が無い世界というのは、交通事故が無い世界のように、原理的には存在しうるからだ。今の所は交通事故をゼロにする現実的な方法は無いが、道路交通法に厳しい罰則を設けることなどで、事故を減らすことができる(実際、航空業界の場合はパイロットの数がドライバーより圧倒的に少ないため、政府による高度な安全管理が可能であり、事故がゼロに近い)。同様に、困窮者に忍耐を求める政策によって貧困を減らすことができるだろう。「貧困=交通事故」論者以上のように考える。

    これらの対立の存在を示唆する結果がある。「湯浅誠 モラルハザード」や「藤田孝典  モラルハザード」で検索して見ると、湯浅氏や藤田氏自身がモラルハザードについて語った文章がほぼヒットしないのである。御二人は貧困問題について活発な活動をされているが、モラルハザードの抑止策についてほとんど議論されていない。困窮者支援の実効性と両立するモラルハザード抑止策はどのようなものか、御二人には議論してもらいたいのだが。


    感情的な問題 発生責任と解決責任

    前節の対立を感情的な面からもう一度分析してみよう。この対立は、貧困の発生責任はどこにあるのかという認識の違いに起因するように思われる。

    スポーツ敗者論者は、貧困の発生責任は社会にあると考える。スポーツにおける敗者のように、貧困発生は自由市場経済における原理的必然だからである。そして、発生責任が社会にある以上、当然その解決責任も社会にある。ところで、発生責任が社会にある以上、解決責任とは要するに賠償責任を意味する。すなわち、社会による福祉政策は困窮者に対する償いなのだ。スポーツ敗者論者は以上のように考える。

    他方、交通事故論者は、貧困の発生責任は社会にはないと考える。交通事故の場合、その発生責任は社会にも警察にもないのと同様である。ある人が貧困に陥った原因は、家庭環境の悪さかもしれないし、本人の病気のためかもしれないし、不況のためかもしれないし、本人の怠慢かもしれない。しかし、いずれにしても社会には発生責任はない。社会がその人に貧困を強いているのではない。

    しかし、交通事故と同様にその解決責任は社会にある。交通事故が起こったら、警察(社会)は実況見分し被疑者を起訴して解決する義務を負う。また、自賠責保険によって補償される。貧困の場合も、生活保護その他の福祉政策を通じて、社会には解決責任がある。

    ところで、なぜ発生責任がないのに解決責任が社会に生じるのか。それはこれらの問題を放置すれば、いずれ社会が崩壊するからである。犯罪や交通事故の発生責任が社会にないからといって、放置すれば社会は崩壊してしまう。同様に貧困を放置すれば社会崩壊につながりうる。貧困層の子弟には優秀な人もいるかもしれないし、貧困層の不満によって暴動が起こるかもしれない。いずれにしても、社会崩壊の危険性を高める。つまり、解決責任とは具体的には社会を維持する政策を意味する。交通事故論者は以上のように考える。

    償い社会を維持する政策、この両者にはそれに伴う感情が異なる。償いに伴う感情は怒りである。困窮者支援者が「生活保護は当然の権利」と言う時、その背後には償う状況を作った社会に対する怒りがある(しかし多くの人はこの怒りが分からないので、傲慢な印象を受ける)。一方で社会を維持する政策に伴う感情は、何が効果的かという計算である。交通事故防止に関して、道路交通法はドライバーだけでなく、事故時に命を落とす場合が多い歩行者にも交通ルールを課している。交通弱者である歩行者にも交通ルールを課した方が、事故がより起こりにくくなるという計算が背後にあるためだ。同様に、生活保護を論じる時に困窮者に忍耐を求める政策にも彼らは好意的になる。その方がより貧困を減らすのに効果的だからである。例えば、生活保護費をプリペイドカードで管理する案は、単に働きたくない人のモラルハザードを抑止しつつ、困窮者の浪費も抑止でき、一石二鳥であると交通事故論者は考える。しかし、スポーツ敗者論者は、償う相手(困窮者)に忍耐を求めることに「何様のつもりだ、実質的に加害者の分際で」と反発するだろう。

    ところで今から10年ほど前に、貧困は自己責任か社会責任かという議論があり、湯浅誠氏(その他の困窮者支援者も)は貧困は社会責任と主張した。彼等のの主張を聞いて、正しいのだが何か違和感を持っていた。そして、その原因は発生責任と解決責任を混同していたことによると今にして思う。つまり、「貧困は社会責任だ」という主張は、純粋に文言だけに注目すると、「貧困の発生責任は社会にあり、償いとしての解決責任も社会にある」という意味と、「貧困の解決責任は社会にあるが、発生責任は社会にはない」という意味の、二つに解釈できるという曖昧さがあったのだ。この曖昧さが違和感の原因だったのだろう。


    ミクロ経済学を論じたいが...

    このようなすれ違いが両者の利害調整を困難にして、社会的な分裂を深めつつあると思う。筆者個人としては、貧困は交通事故のようなものだと考える。それは原理的な必然ではない。その根拠はミクロ経済学(の純粋交換理論)に求めるのだが、今は日常生活が忙しくて詳しく論じる時間がない。


    2015年1月23日金曜日

    自己責任論の誤り 人質に責任は無く、迂闊なだけである

    イスラム国による、湯川遥菜さんと後藤健二さんの日本人二人の人質事件において、「自己責任なので殺されても仕方がない」という議論がネット上で噴出している。しかしこれは、自己責任と、迂闊な行為(自ら外国の危険地帯に行くという)への非難を、混同した誤った議論である。

    どうして、このような混同が生じたのだろうか。

    今回の人質事件の発生責任は明らかにイスラム国のテロリストにあり、被害者である二人にはもちろん、日本政府にも存在しない。しかし、この事件の解決責任は日本政府にある。これは国内における犯罪の扱いと同じである。犯罪行為の発生責任は加害者にあり、被害者にも警察にも存在しない。しかし、その解決責任は警察にあり、適切に捜査して被疑者を逮捕し、訴追する責任がある。

    2002年のイラク日本人人質事件において、被害者家族が日本政府に発生責任があるかのような発言を繰り返した。おそらく、この発言に対する反論の意味を込めて、当時の福田官房長官が自己責任という言葉を使ったのだろう。

    しかし、やはりこの用語の使い方は当時においても不適切だったと思う。この用語は、一般的には瑕疵担保責任や過失による不法行為責任などの賠償責任の免責を表す言葉である(例えば、「このフリーソフトウェアを使用する場合、そのバグによる損害は自己責任でお願いします」などの注意書き)。これはリスクある行為の損害(ソフトウェアの使用で稀に起きるデータ消失や、投資の失敗など)を誰が負担するかという文脈の議論であり、それをリスクを理解した上で自ら選択した行為者本人(ソフトウェアの利用者本人、投資家本人)とするのが自己責任の意味する所であろう。そして、これは民事上の賠償責任を念頭に置いた用語であり、刑事上の用語ではない。

    福田官房長官は単に、「人質事件の発生責任は日本政府には無い」と言いたかったのだろう。しかし、それはイコール「被害者に自己責任がある」ということまで意味しない。おそらく、「イラクの危険地域に行くというリスクある行為を自ら選択した」という点と、自己責任の「リスクある行為を自ら選択する」という点の類似性を以って、両者を同一視したのだろう。しかし、人質事件はソフトウェアのバグではなく投資の失敗でもなく、単に犯罪である。民事上の概念である自己責任を刑事上の議論に関連付けるのは誤っている。

    もちろん、人質に何ら非難すべき点がないわけではない。わざわざ外国の危険地域に行き、懸念された通り犯罪に巻き込まれたのだから、彼らは迂闊であると非難されるべきだ。しかし、責任という用語を用いて非難すべきではない。犯罪の被害者には、いかなる責任もない。

    これらの混同によって、誤った(あるいはバランスを欠いた)議論につながってる。

    例えば最初にも言及したように、主にネット上の保守派を中心に「自己責任だから人質を助ける必要はない」という誤った議論を引き起こし、政府の邦人保護義務(解決責任)をないがしろにする認識につながっている。他方で左派を中心に、自己責任論の誤りを指摘して犯人の責任(発生責任)と政府の邦人保護義務に言及するが、そこで思考は停止し、人質の迂闊な行為(わざわざ外国の危険地帯に行くという)は批判しない。

    あれから10年以上経過したが、未だに以上のような混同をして(ネット上の)保守派と左派がかみ合わない議論をするのは、何故なのだろうか。

    ※お二人の死については非常に残念です。ご冥福をお祈りいたします。お二人への批判の言葉が不適切と考え、一部修正します。