2015年5月15日金曜日

護憲派に対する違和感

戦後の憲法9条の政府解釈は法治主義に反する屁理屈であり、自衛隊は違憲である。しかし、国防組織が必要なのは疑いないので、憲法9条を改正して明確に自衛権に基づく戦争(自衛戦争、予防戦争、制裁戦争)を認め自衛隊を合憲と位置付けた上で、併せて侵略戦争を禁ずる規定を追加するべきだろう。

憲法9条は政府首脳の善意によって運用されていると思う。憲法9条の政府解釈(自衛行動[交戦権なき自衛戦争]という概念を恣意的に作り出す)と同じ態度で三権分立や参政権を解釈すれば、日本は法治国家ではなくなっていただろう。憲法9条以外は法治主義に沿った妥当な解釈を行い、ただ9条のみを法治主義に反する解釈をして政権運営を行っている。これが実現していたのは、閣僚や官僚幹部の善意だと私は推測している。そしてこの善意は、敗戦による主権消滅の恐怖体験によって成立していたと思う。また、自衛隊合憲の政府解釈もこの恐怖体験が元になっているのだろう(自衛隊が存在しないと主権国家を維持できない)。いずれも無意識的なものだろうが。

しかし時は過ぎ、敗戦による主権消滅の恐怖感も無くなってしまった。そろそろ法治主義に反する危険な9条解釈を止める時期である。そうしないと、官僚や政治家の中に悪意を持って法治主義を破壊する実力者が将来現れた時に、その人を牽制できなくなる(その悪人は今は小学生かもしれないし、未だ生まれていないかもしれない。いずれにしても、その潜在的な悪人を抑止する法制度を作る必要がある)。

しかし、単に憲法9条で自衛権に基づく戦争を認めるだけでは足りず、侵略戦争を明確に定義してそれを禁ずるべきだ。なぜなら、過去において侵略戦争と銘打って開戦した国は存在しないからである。何が侵略戦争なのかを明確に定義し、侵略戦争を自衛権に基づく戦争だと政府にカモフラージュされるのを防ぐ必要がある。それには、太平洋戦争や日中十五年戦争を実行した動機の中で、何が正義に反するものだったのかを明らかにする必要がある。しかし、その作業を始めた場合、中韓が外交カードとして使って日本に謝罪を求めてくるだろう。

そこが保守派のジレンマである。本当のところ過去を反省したいのだが、他国を不当に利するのは避けたい。残念ながら、国際政治においては未だ弱肉強食の側面があり、自国に不利なることを自ら行い、安易に他国を利するわけにはいかないのだ。

いわゆる護憲派は、本来は、太平洋戦争を侵略戦争とした上で批判し、憲法9条を改正して自衛隊を国防軍に格上げするとともに、明確に定義された侵略戦争を禁止する規定を憲法に追加すべきだった。しかし、自衛権に基づく戦争も含めて単に戦争を行う能力を否定してしまい、丸腰になるのが理想と説いた。北朝鮮や旧ソ連、中国の脅威が現実に存在したのに非現実的である。

彼らは「戦争反対」と言うが、これは不正確な表現である。「侵略戦争反対」と言うべきで自衛権に基づく戦争は容認すべきだった。

例えば、警察の不祥事を防止する対策は、警察組織を消滅させることではない。確かに警察組織が消滅すれば原理的に警察不祥事は発生しなくなるが、それでは一般の犯罪が処罰されなくなってしまう。警察不祥事の防止に求められるのは、不祥事を防止する具体的な施策であり、警察組織の消滅ではない。同様に、軍組織暴走の防止に必要なのは、その暴走を防ぐ具体的な施策(三権分立や、首相への全権力と全責任の集中、侵略戦争の明確な定義と禁止)であり、軍組織そのものの消滅ではない。それでは他国に簡単に侵略されてしまう。

あまつさえ、非武装中立は資本主義の間だけで、社会主義革命後は武装化してワルシャワ条約機構に加入すべきと明言する者もいた。(向坂逸郎など)。護憲派が信頼を失うのはあまりに当然である。